2013年05月25日

著者紹介の下書き

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不狼児(ふろうじ)
主に短い小説を書く。

「第4回ビーケーワン怪談大賞」では『猫である』が佳作、『マンゴープリン・オルタナティヴ』が愉しませてもらいました賞を受賞。

後にいくつかの作品がアンソロジーに収録された。
『てのひら怪談』(ポプラ社)シリーズ。
『リトル・リトル・クトゥルー―史上最小の神話小説集』(学研)
『超短編の世界』(創英社)シリーズ。
『みちのく怪談コンテスト傑作選2010』(荒蝦夷)


ほんとうは、ここで「同期受賞者には『生き屏風』で第15回日本ホラー小説大賞短編賞受賞の田辺青蛙と「夜は一緒に散歩しよ」で第一回『幽』怪談文学賞長編部門大賞受賞の黒史郎と「さざなみの国」で第23回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した勝山海百合がいる」と自慢したいところだけど残念。
生涯唯一の賞歴である怪談大賞を外すわけにはいかないが、私と同類だと思われては迷惑がかかりそうだから、なるべく他の人の名前は出さないようにしないと。
超短編とか怪談も同じ理由でなるべく使用しないようにする。
収録された本が紹介してあるから無駄だ、と言われればそれまでだけども。

以下は省略だろうな。

死んだ人間と過去のものが好き。現在と未来は嫌い。ポップなものは大嫌い。耽美は苦手。ホラーは性に合わない。エロ・グロ・ナンセンスの中ではナンセンスが一番。エロとグロに関してはおつきあい程度。人生を語る小説が最も忌まわしいと思う。渋くて地味な作風が好みだが、自分で書くのは支離滅裂なものだけ。日本の伝統芸能は全く理解できない。
嫌いな言葉はアート、アーティスト、愛国心、もちもち(もっちり)した食感、シャキシャキとした歯ごたえ、など。
お薦めの作家はデビッド・グーディス、李賀、山崎俊夫。読むと幸せになれる。



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2013年04月23日

お知らせ

何にも書けなくなっちゃったんで、電子書籍(kindle)を出してみました。

ラインナップはここから→ (有)煙草屋

どんなもんでしょう?

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2012年02月29日

500文字の掲示板のこととか

問題点がずれている。
これは障害があるとか持つとか読者に対する配慮を求める話ではない。読んだ人間が誰も不愉快にならずに済むような書き方はない。そんなものは何も言っていないと同じだ。問題点はひとえに19の作者がハンデなどという中途半端に配慮した表現を選んだ点にある。どのような考えを持とうとそれを表現するのは構わないし、読んで違うと考えた人があれば批判を受けるだけだ。しかし批判も共感もそれを正確に表現した上でのことだろう。
ハンデなどと書かず足が立たないとか目が見えないとか首から上がないとか書いてあれば、読者は足が立たないのよ目が見えないのは優しい理由にはならない、首から上がないならそれはやさしいだろう、と判断できる。頭がなければ意地悪なことも考えられない。猿の惑星に生まれた人間の個だったら、大変なハンデではあっても人間は猿より残虐ではあってもやさしくはなかろう。寝たきりの植物人間ならば、消極的な意味でしかやさしくはあるまい。あるいは単に親ばかで、やさしくもないハンデのある子をやさしいと思い込んでいるだけかもしれない。とんでもない性悪な正確な相手を愛していると思って結婚するなんてよくある話だ。
或いは、アポリネールの短編にそんなのがあったが、その子は死んでいて、双方納得して茶番を演じているのか。存在しないというのは、結婚相手として相当なハンデだ。
ただこの書き方ではそのどれかがほのめかされているとも読めず、「ハンデがあるから優しい」というハンディキャップに対する偏見を助長するような考えはけしからんと非難されるのは仕方ない、というか当然でしょう。

その種の問題を取り上げるべきかどうかと言うより、元ネタがある場合には元ネタを知らない読者にわかるように書くのが最低限必要だろうと思う次第。

なんて500文字の心臓掲示板にコピペしようと思ったがやめた。
急いで書いたから言葉遣いが乱暴だし、作者が既に出てきているのに、叩くようで嫌だし、この期に及んで失礼だ。
でもせっかく時間をかけて考えたのだからしばらく貼っておこう。

しかしホント。
不用意な一般化は危険だな。特に小説では。個人攻撃や罵倒と取られても個別具体的に扱うべきだろう。すぐに男は、女は、日本人は、と一般化しないように。具体的にこれこれではなくハンデと言ってしまうのは、ヒトラーがユダヤ人資本家の誰それを非難する代わりに、ユダヤ人一般から非アーリア人まで一般化の範囲を広げていったのと同じ轍を踏む事になる。あるいは孫正義のやり方が汚い→在日韓国人が汚い→朝鮮人悪いと拡大解釈してゆくやり方と。自戒を込めて。

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2012年01月25日

ひかり町ガイドブック3

『ひかり町ブックガイド』到着。
第一印象は、ひかり町ってこんな田舎だったのか――
私のイメージでは浅草近辺の下町の小さな家が立て込む、入り組んだ路地の町。そこに田舎の駅前の閑散とした広場の静けさと、巡回遊園地の遠ざかる喧騒を加え、異界につながる社や公会堂の裏山、点在する緑地を配した、都会の真ん中に漂う浮島。
冊子を読んだ印象では埼玉あたりの郊外都市のようだ。埼玉に海はないが。
逆に言えば、海さえあれば狭山丘陵にもひかり町が現れるかもしれない。キューポラのある街が里山にタイムスリップして独自に超進化する感じ。

別紙、『ゆみに町ガイドブック』の著者であらせられる西崎さんの全作品コメントも素晴らしい贈り物です。
心臓の選評でこのくらい書ければねえ。無理なのはわかってるが。
的確で、簡潔。書き手にも読み手にも親切。凄い。
ありがとうございます。

 

○お知らせ

空虹さんがひかり町ブックガイド「暮れる朝」を公開されております。
ガイドに続けることも可ということなので、挑戦してみてはいかがでしょう。
当方は鋭意製作中。
もちろん私の公開2作のガイドにもご自由にどうぞ。
それなら個別のエントリーにアップし直した方がいいかな。

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2012年01月14日

ひかり町ガイドブック

ひかり町ガイドブックは悔いが残るなー。
余裕がなかったから。応募作。推敲不足で、今になって直したい部分がいっぱい出てくる。書き換えて良くなるものではないとはいえ……ガイドはいいけど、物語は全然ダメだ。粗だらけ。

てことで、「ひかり町ガイドブック」を「遺伝記」のように大勢の作者で書いて行ったら面白そうだ。
誰かが書いたガイドブック部分に別の作者がものがたりを付ける。今度はそのものがたりの舞台や小物を利用してガイドをでっち上げる。矛盾を孕み、歪み、深まり、膨らんで、町は万華鏡のように刻々に姿を変える。

遺伝記がいまいち物足りなかったのはホラー小説という縛りのせいもあるだろう。怖い話に重点が行きすぎて、全体として見ると連動性が薄く、せいぜいが年代記的な繋がりで、そういう点では快感が乏しかった。繋げるにしろ、切るにしろ、超短編の方が自由度が高い。とはいえ、こういうものでは真っ先にフォーマットを壊しにかかる方なので、他人様にやってともやればとも言えないが。

そんな訳で超短編イベントに参加した人はツイッターでもブログでも報告をよろしく。お願いしますよ。

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2012年01月13日

今日のひと言

糞溜めを掻き回しても糞に当たるだけだ。
                                             ――内閣改造

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2011年12月02日

超短編の世界3

絶賛発売中! 拙作も三篇収録。いちおう新作。

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幻妖ブックブログ「本日の一冊」で紹介されております。
どうです?
ほら、読みたくなってきたでしょ。

でことで、現物が今ここに。

来た。読んだ。泣いた。
みんな可愛い路線なのに、俺だけ不気味。

と書いたらカッコイイかと思って。でも実態は違うのでご安心を。

それぞれに不気味だったり、可愛かったり、甘かったり、辛かったりするものの、共通する軽やかさ、目の前からひょいと身を翻して逃げてしまうような捉えどころのなさが魅力的で、三冊目にしてまるごと一冊、編者の趣味(というより志だな)が隅々まで行き渡った『超短編の世界』を提示している。

一つの意味を定着させて事足れり、とするような作品は周到に排除され、読者は引き続き宙吊り状態に放り出され、だからそれは読み終わってしまった話ではなくて、いつかどこかで再びめぐり逢うことがあるかもしれない。
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てのひら怪談 辛卯

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今年も出ました。

拙作は地震の話ですが、震災に便乗したわけではありません。書いたのは去年だしね。

第9回ビーケーワン怪談大賞も開催中!

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2011年08月22日

第9回ビーケーワン怪談大賞 選考結果発表

第9回ビーケーワン怪談大賞の選考結果が発表されております。

選考会議を読むと東雅夫選ベスト20に選ばれてましたよ。
死ぬほどうれしい!
文豪怪談の夢と幽霊というコンセプトがモロ好みだったので、その流れを汲むものをぜひ送りたかったのだ。

現実のリアリティは無理としても夢のリアリティは手に入れたいものだ、とつねづね考えていたけれど……
そっか。怖くないか。
今回は結構怖さを追求したつもりなのだが、やはり理屈で攻めるからだめなのか?

雰囲気で攻めるのは、確かに鏡花はぞっとするけど、ほわほわもくもくと言葉の雲を拡げていって、稲光の紐でぱっと縛って袋詰め、その袋を一息で裏返すような、あの一瞬の切り替えし、転調の妙は、誰にも真似ができない。
百けんのもたらす不気味さは、抑えて抑えて潮が引いて、引いた後の空隙に何かしらを呼び込むところにあるので、単純に怖いのとはちょっと違う。
だいたい超一流と比べて同程度にできないから諦めて別のやり方を、という姿勢が良くないのだけどな。

よく書けているけど怖くない。怪談じゃない、というのはあれか。インテルやレアルのモウリーニョはそりゃ強いし、勝つには勝つけど、チェルシーの時のような快感がない、ってのと同じか。
ドログバもいないしね。
イブラヒモビッチもクリロナもいい選手だけどタイプが違う。
素材と料理法。突出したものは両方が合致しないと生まれないということで。
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2011年07月10日

『恋する虜』と『パリ日記』

ジャン・ジュネ『恋する虜』とエルンスト・ユンガー『パリ日記』を交互に読んでいる。
読んで、こんな幸福感を抱かせるような本はめったにない。
全く異質な文章だがどちらも、どこまでも可能なかぎり正確さを保とうとする意志に溢れているように感じる。
だが何に対して正確なのだろう?
たぶん観念的な現実ではなく、感覚的な現実に対する正確さだ。
あくまで感触の問題だけれど。

小説は大抵の場合、現実とはこういうものだという考えに沿って展開されてしまう。
予め定められた物語の枠組みに流し込まれた言葉はどんなに熱く、溶けた鉄のように煮えたぎっていても、本来の自由を失い、生きられた現実に――いや、むしろ生きるべき現実に、と言うべきか――到達することができない。
誰もが小説の中に閉じ込められようとは思わないのだから、言葉が人間を言葉から解き放とうとしない書物は、読んでいてもひたすら息苦しいだけだ。間違っても幸福感などもたらさない。

しかし、時に読むのが苦痛になることもある。
そこには決して読者の手の届かない時間が流れているからだ。
まるで言葉が現実に届いた途端、読まれることを拒否するかのようだ。

何と言うか、リビングストンやヘディンの旅行記と同じだ。これらは探検であり、「場の発見」をめぐる記録でもある。ドキュメントと言っても通常のルポルタージュのように軽々しく物語の枠組を現実に適用して見せるわけではない。オリエンタルなものが異質なものとして意味を持つのは西洋人にとってだけだ。日本人が東洋思想の特殊性だの優越だのを謳うほどバカげたことはない。

自分の領域からさまよい出すこと。読者もまた作者と等しく「身を引き剥がして」、新たな「場を発見」しなければついて行けないような本だ。

途中なんで、こんなもの。読み終えたら感想なんて書けないもんね。恥ずかしくて。

posted by 不狼児 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月11日

(タイトル入力が必須とは面倒な仕様だ)

プロフィールなんて気どりすぎて少しズッコケたくらいがちょうどいいな。
あまり糞真面目でも息苦しいし、気障に決めたら嫌味だけど、外しすぎても恰好悪い。
ふざけるのはいちばん迷惑。
いずれにしろ誰も「お前のことなんか何も知りたくない」のだという事実を肝に銘じておかないと、赤面するだけでは済まない。

posted by 不狼児 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

定義、あるいは『超短編の世界3』

超短編は無駄に長くない長編小説である。あるいは理想的な長編小説である。一つの話を首尾よく物語ることで成立する中短編小説とは違って、一つの全体を呈示する。ツイッターが流行っているから、超短編が書きやすいor理解されやすい、というのは誤解です。同じように短いからと言っても超短編の言葉は呟きの対極に位置する。一個の全体像を呈出するものであるからにはさもしく曖昧なコミュニケーションを求めることはない。曖昧で遠慮深く、自堕落で厚かましい囀りの代わりに沈黙を――媚びと狎れ合い、仄めかしと誘惑のコンビネーションが作る場というものを破壊して、無人の荒野を開く。
その点で超短編は長編小説に似ている。
超短編が散文詩に似ているのは、散文詩が断片的であるがゆえに、一個の全体であることを希求する時だけだ。

とまあこんなふうに定義してみました。
もちろん定義であるからにはその他の多くの考えを排除するものなので、異論はいくらでもあるに違いない。ひとつの定義は単に定義する者の趣味と能力の限界を示すだけとも言えるだろう。

例えば私は歌詞的な超短編は読めない。もちろん読む能力がないという意味で。
つまりそうした超短編は読者が自ら歌う必要があるからだが、演奏者の資質がないというか、作品の外部でその歌詞に合ったリズムとメロディを鳴らせない。
パロディが元ネタを知らなくても面白く読めなければ意味が無い、と考えるのと同じで、できる限り作品の独立性が高くあって欲しいわけですが、さりとて知識とか外部情報の最低限度をどのあたりに置くべきかは微妙な問題で、歌詞を見て音楽を聴けるのがごく普通レベルの人間の能力なのかどうか。
ところが『超短編の世界3』という書物の体裁の中で、巧みなレイアウトとタイポグラフィのおかげで眼に見える音楽を与えられると、あら不思議、私のような音痴でも、過去にどこかピンとこなかった作品が生まれ変わったように面白く読める。
言ってみれば超短編は極めて半端な形式、より完全を求めれば散文詩になり、より半端を窮めれば歌詞になるという、時と場所によって位相を変え、意味が変わる、非常に小説らしい中途半端な位置に浮遊する創作物なのだろう。

異論の多さは、逆に超短編の一篇一篇がそれぞれ一つの全体を目指していることの証とも言えるかもしれない。
あるいは断片として限りなく拡散してゆくことを望むのかも。

いずれにしても極端に短い他は、ショートショートの予想外の驚きとか、怪談の怖さとか、SFらしさだとか、ミステリーとしての成立だとか、特定のジャンルの縛り(先入観とも言う)がないだけに、実作以外で超短編とはこうしたものだ、とは言えない。
だから趣味に合う合わないにかかわらず、可能性を狭めることなく、広く、多様で、自由な作風を受け入れられるというわけ。良き哉。

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2011年02月16日

というのも

今や罵倒だけが純粋な文学だ。誰も彼もが自己を語りたがる中、罵倒だけが他者を語ろうとする。たとえそれが自己を映す鏡でしかないとしても。
正確な罵倒は、いたずらに他者と自己を同一視することなく、自他を隔てる壁を取り払おうとする。
自他を共に保存したまま交流することはできないから、その行為が少々破壊的なのはしかたがない。というか避けられない。
読み取られるのを待つことに耐えきれず、情熱のあまり自ら出向いて噛みつく言葉は迷惑この上ないが、しかし所詮、血が流れないところに交流はないのだ。
食い裂くものと食い裂かれるものは流される血の中で一体化する。

余裕を持って楽しむとか、公正な評価、したりげな解説など、適切な距離を保てない性分では無理だろう。

世に蔓延する自己充足する言葉の賤しさは丸々と膨れあがったアブラムシの腹を思いおこさせる。
アリが蜜を舐めにそこに群がる。
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2011年02月13日

眼高手低、あるいは平山郁夫美術館について

いつ見ても感心するのが平山郁夫コレクションの見事さだ。小体で、繊細、それでいてどれも例外なく彫りが深い。あざやかで密度の高い美術品の小宇宙。あれだけのっぺりとした、平板で莫迦ばかでかいだけの退屈な画しか描かなかった人間が、これ程の鑑賞眼を持っているとは。よく自己嫌悪に陥らず描き続けられたものだ。それよりも驚くべきは画力とデザインセンスはかけらもないのに生き残り、芸大の学長にまで昇り詰めた抜群の政治力、機を見るに敏な行動力、獲得した権力と財力をいいものを残すために使う高潔な意志(莫迦な金持ちはほんとくだらないことにしか財産を費やさないものだから)と言い、まさにインディ・ジョーンズなど足元にも及ばない冒険家の鑑。現代の奇跡だ。
詐欺師として人心をコントロールする能力は、コロンブスにも匹敵しよう。しかしあっちはたまたまアメリカがあっただけのこと。このように明確な意思はない。
高額でゴミを押し付けられた財界人も屑を抱えて満足しているべきだろう。詐欺もここまで来れば立派な芸術だ。横山大観みたいに下手くそな画と後世まで残る低劣な悪党向けの詐欺のネタしか残さなかったインチキぶりと比べると雲泥の差としか言いようがない。
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期待、または『罵倒文学史』のこと

罵倒文学史という本が面白そうだと思ったが、サンプルを見ると、ちょっとレベルが低そう。これじゃ小学生の悪態だ。
罵倒するなら相手の全人格を否定するくらいは当然として、存在そのもの、存在した記憶さえ抹殺するくらいの強い否定の意思がないと間が抜けたものにしか聞こえないと思うのは、自分だけだろうか。
オクターヴ・ミルボーとか、バルベー・ドールヴィリーの罵倒はもっと強烈で、爽快だった記憶があるんだが。
チェリビダッケがマーラーを「自分の資質を誤解して巨大なものに憧れた哀れなサナダムシ呼ばわりしても不快な気がしないのは、唯一演奏した「亡き子をしのぶ歌」が素晴らしい出来だったからだけではなく、自分の考えを留保なく述べることの爽快さにあふれているからだろう。ある意味正確な表現でさえある。罵倒が不正確であったら意味が無い。
そんなことを言ったら、と言い返せることは数少ない。
――あなたの好きなブルックナーなんて浜辺に打ち上げられたシロナガスクジラの死体みたいなもので、巨大な上に腐りも風化もしないので邪魔なだけ。――チャイコフスキーにいたっては腹を下した五十女三人のお喋りだ。話しているんだか漏らしているんだかわからない。――とか。
冴えない反攻だ。晩年のベートーヴェンの演奏が凄いので、もちろんミケランジェリとの協演は絶品だし、どうしても圧倒される。
カラヤンがいいという人間には差別用語を使って×××で済むんだけど。
罵倒するにも対象の格に合わせて言葉を選ばないと。

本当に面白い本なら誰かが内容を紹介してくれるだろう。
でも、どうなんだろう。企業名をさん付けして呼ぶ胸糞悪い連中だらけの現代の日本で、罵倒が受け入れられるだろうか? 即効でゾッキ本行きじゃあるまいな。

それにしてもこのような種類の本まで刊行されるのに、『サラゴサ手稿』がいまだに出ないのは解せぬ。道尾秀介で『怪奇小説という題名の怪奇小説』を復刊させたみたいに、誰か芥川賞か直木賞でも獲った作家をダシにすればいいのに。
誰かやってくれないかな。
私が出せ出せ言っているうちは永久に刊行されないような気がしないでもない。

あ、でもこんな文章をを上げたら、超短編の評判を悪くしないようにと電子書籍の公開を止めた意味がないか。

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2011年02月07日

近況、あるいは『風流夢譚』

みちのくといえば深沢七郎だろう、と思ったが姥捨て山の話なんか金を払って読みたくない。昔映画の一シーンを見たことがあってうんざりした記憶があったからだ。だいたい面白い小説の映画化は面白い物になった例がないので原作は偲べないのはわかっているが、それにしても深沢七郎を賞賛する人の口ぶりはどこか胡散臭い。なんかこう訳知り顔な態度に抵抗を感じるのだ。でもそこに深沢七郎が三島由紀夫は少年文学だと言った話が載っていて、なるほど三島由紀夫が好ましいのはそういうわけかと気がついた。僕は少年文学が好きなんだ。大人の文学なんか読みたくないなあ。とはいえ深沢七郎の物を見る目は確かなようだ。
そう思ってネットで拾った『風流夢譚』を読んだら、これはもう素敵に面白い。大笑い。この魅力をなんと説明したらいいか。芸としての文の力をいかんなく発揮した、絶妙な距離感。正しく大人の文学でありました。
浪漫的小品と題されるにふさわしいロマンティシズムに溢れた夢想。ファンタジックな歌物語。最高に軽やかなファルス。見かけとは裏腹に非常に知的な作家なのだろう。
これを読んで人殺しに走る少年がいるというのもどうかと思うが、夢オチを莫迦にする人間をせせら笑うかのように、夢の時間は確かに生きられた時間であると表現しているのだから、無理ないと言えなくもない。夢見られた時間は現実に生きた時間と等しい。その証拠に語り手が起きている間しか動かない腕時計が動いている。少年の中では天皇は現実に殺害されたのだ。

やはり文芸は天性だな。百物語怪談会をずっと読んできて、いろんな話、いろんな語り方があるなあと面白く読み進め、最後に鏡花の鰻の話にいたって、まったく別格のアトモスフィアに愕然とするというか、絶望するというか、それと似た感じ。

posted by 不狼児 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

超短編の世界3、なんだけど

えーっ。超短編の締切りって、通常一週間は余裕があるんじゃなかったの? 時代は変わったな。締切り告知知らないで今朝出しちゃったけどさ。だって締め切過ぎないと新作書き上がらないんだもん。まあいいや。

応募作を選んでら同工異曲だったんで、これを外しあっちを入れて、やっぱり新作出さないと始まらんな。というわけで書き始める。日付が変わる頃になると調子が出てくる。
こういう時こそ、未完成のまま放置されていた無数の作品が一挙に完成させられるものだが、あっちこっちに書き散らかしたせいか行方不明のもの多数。
探しつつ、選びつつ、同時に思いついた二つのことを忘れないうちに半行ずつ交互に書き記す。
というわけで十数篇の超短編を次から次へ、飛び移りながら書き進めると、完成する前に締め切りは過ぎる。

ワンパターンなのは仕方がない。面白いと感じるものはごく限られている。一人の人間がやることだし。ワンパターンから脱出しようとして駄目になった作者は数えきれない、と考えて自分を慰める。取材して、調査しても、興味がわかなければ無味乾燥なものしかできないし、そもそも能力的な問題で不可能なことが多すぎる。

にしてもネタが被っている。新作も、選んだやつも、構造が同じだ。
特に一行超短編は、自分の知らないことを書かなければならないので難しい。知っていることを約めて書いたのではただのひねりの効いた一句になってしまう。
文章はますます混沌として、混沌どうし似通ってくる。コスモスよりはカオスが好みなのでそれはいいんだけど、全くもって選びづらい。

選ぶとは世界を構築することだ。ところが僕は当て所なく世界をさまようのが好きなのだ。国境を定め、王国を打ち立てる気なんてさらさらない(考え方は人それぞれ、色々あるだろうが、間違いなく、最悪なのは自己顕示欲を発揮することだ。この期に及んで自己の世界を表現されては退屈でやりきれない)。

やっぱり送らなかったグループの方がまだましだった気がしないでもない。どっちにしても締め切り過ぎてるんで……

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2010年09月16日

村上隆 in ベルサイユ

村上隆の作品がベルサイユ宮殿に展示されるというので、抗議のデモがあったらしいが、感覚的にはそれが正常だ。
村上隆の作品は間違いなくゴミだ。というか、ゴミであることに意味がある。それはゴミでなければならないのだ。
村上隆の芸術とはゴミを高く売りつけるウォーホルの方法をさらに発展させて、マイクロソフトのように企業化し、より低劣なゴミクズをより高額でコレクターや美術館に売りつけ、そんなものを有難がる人々を密かに笑い、ご高説を垂れる批評家や学芸員を嘲弄すること、ヴィトンとコラボレーションしてバッグを作りそれをぶら下げて帰国した中田英寿を猿回しの猿に見せること。
パフォーマンスとしては以後も自己のアートをより高級品ぶって崇めさせ、より高額で売りつける必要があるので本人は決して認めないだろうが、事実はそうだ。
企業や国家が搾取した金をみすみす溝に捨てさせ、セレブの肛門に人参を突っ込んで踊らせる。虚空に馬鹿笑いを響かせるのがその芸術の真髄だ。
作品を評価するすべての人間を嘲り笑い、画集を買うスノッブやベルサイユの展覧会に感心してやまない貧乏人も含めて、裸の王様以上の醜態を演じさせること。
となると気取れば気取るほど滑稽なわけで、村上隆はこれからも、広告代理店で働く人間の低劣で卑小な人間性を自らカリカチュアライズして演じつつ、貪欲に利益を求め、経済活動を侵食し、ルーブルのガラスのピラミッドの天辺に脱糞して垂れた滴を集まった観客に舐めとらせて金を取るような芸当を続けて、ほくそ笑むに違いない。賞賛も非難も本人にとっては得たりとばかりで、宜しいんではなかろうか。
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2010年09月10日

出さねば!

おっ、『超短編の世界3』の作品募集だよ。

いいもの、って言われると腰が引けるけど、ま、いいか。僕の担当は「変なもの」なので。
アンソロジーにはスパイスも必要ですよ。なんて今から売り込みを掛けてみたり。
posted by 不狼児 at 19:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

「ワールド文学カップ」

紀伊國屋書店ピクウィック・クラブのブログで「ワールド文学カップ」が紹介されている。
要するに世界文学のブックフェアで、紀伊国屋書店新宿店で4月開催予定だそうだ。ブックレットもあるけどPDFなのでラインナップはよく見ていない。
それはともかく普通に見れるブログの方で、会員がそれぞれベストイレブンを選んでいる。
個性がでていて面白い。以下無断引用。

■ピクウィック・クラブ榎本のベストイレブン

FW:泉鏡花『草迷宮』
FW:ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』
MF:津原泰水『バレエ・メカニック』
MF:チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』
MF:クレア・キーガン『青い野を歩く』
MF:磯崎憲一郎『世紀の発見』 
DF:アントニオ・タブッキ『イタリア広場』
DF:ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
DF:ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
DF:中上健次『枯木灘』
GK:レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』

控えFW:谷崎潤一郎『少将滋幹の母』
控えGK:コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』


■ピクウィック・クラブ木村のベストイレブン

FW:サーテグ・ヘダーヤト『生埋め』
FW:中井英夫『とらんぷ譚』
FW:ダフネ・デュ・モーリア『鳥』
MF:フラナリー・オコナー『賢い血』
MF:レイナルド・アレナス『めくるめく世界』
MF:澁澤龍彦『高丘親王航海記』
MF:桐野夏生『グロテスク』
DF:イアン・マキューアン『贖罪』
DF:谷崎潤一郎『鍵』
DF:ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
GK:サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

控えMF:ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』
控えGK:ロラン・トポール『幻の下宿人』


■ピクウィック・クラブ蜷川のベストイレブン

FW:ジョルジュ・バタイユ『空の青み』
MF:イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
MF:G・K・チェスタトン『木曜日だった男』
MF:エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』
MF:ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』
MF:アントン・チェーホフ『かわいい女・犬を連れた奥さん』
DF:ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』
DF:ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
DF:ルイス・キャロル『スナーク狩り』
DF:ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』
GK:レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』

控えFW:レーモン・クノー『イカロスの飛行』
控えDF:サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

(レーモン・ルーセルは好きだけど、キーパーはどうだろう。明後日の方の向いていてボールに反応してくれそうにない気がするのだが。バタイユのワントップはイブラヒモビッチかドログバみたいだし、セリーヌの中盤も非常に楽しみなんだけど。トルストイやラシュディなんかいかにもGKっぽい)

■山田さんが選ぶベストイレブン

FW:エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』
FW:トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』
MF:レーモン・クノー『文体練習』
MF:村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』
MF:青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』
MF:ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』
DF:ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』
DF:村上春樹『風の歌を聴け』
DF:安部公房『人間そっくり』
DF:大江健三郎『万延元年のフットボール』
GK:ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』

控えFW:大江健三郎「セブンティーン」『性的人間』
控えGK:ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』

(サッカーっぽくないような。てか、なんとなくワールドベースボールクラシックという印象)

割と面白いでしょ? 普通にベストテンを選ぶと息苦しいと言うか、価値の優劣をつけているみたいで面倒だけどこれならチーム構成とか、プレーの特色を勘案して、ワールドカップで目指すプレーをイメージできる。

で、ワタクシもやってみました。まずは日本代表。

FW:種村李弘『ナンセンス詩人の肖像』
FW:加藤郁乎『牧歌メロン』
FW:稲垣足穂『ライト兄弟に始まる』
MF:筒井康隆『俗物図鑑』
MF:平賀源内『風流志道軒伝』
MF:澁澤龍彦『思考の紋章学』
DF:野坂昭如『骨餓身峠死人葛』
DF:鷲巣繁男『詩歌逍遥游』
DF:岡本太郎『今日の芸術』
DF:三島由紀夫『午後の曳航』
GK:花田清輝『日本のルネサンス人』

控えDF:高橋睦郎『眠りと犯しと落下と』
控えMF:吉田健一『怪奇な話』

小説家が少ないな。三島由紀夫は仕事量の豊富さと視野の広さをかって右サイドバックに。左に回したら怒られそうだ。泉鏡花はFWタイプじゃないし、あまりサッカーのイメージじゃない。内田百閧ヘ試合を途中で抜け出してネコを探しに行きそうだし、谷崎潤一郎はサッカー以前にスポーツに向いてない気がする。種村李弘は割りにどこでもこなせそう。中盤で使うなら作品は『ザッヘル=マゾッホの世界』か。

続いて不狼児のベストナイン←ベストイレブン

FW:J.P.マンシェット『殺戮の天使』
FW:A.ランボー『イルミナシオン』
FW:D.グーディス『狼は天使の匂い』
MF:J.バタイユ『眼球譚』
MF:A.ブルトン『黒いユーモア選集』
MF:クライスト『ペンテジレーア』
DF:J.ジュネ『花のノートルダム』
DF:W.シェイクスピア『リチャード3世』
DF:J.スウィフト『ガリヴァー旅行記』
DF:B.サンドラール『世界の果てまで連れてって』
GK:バルザック『従兄弟ポンス』

控えDF:G.アポリネール『虐殺された詩人』
控えDF:J.ヴォートラン『パパはビリーズ・キックを捕まえられない』

ヨ−ロッパに偏った。プレースタイルの適合性からいってまあしょうがないだろう。選び方に性格が出る。きわめて攻撃的なメンバー。スリートップは強力だし、スウィフトとシェイクスピアのセンターバックは鉄壁だ。ジュネはああ見えてしっかり仕事をこなしそうだしフィジカルも強そう。アポリネールはルーセルと同じで好きだけど、どうかな、という感じ。あたりに弱いし、太りすぎてあまり動けないんじゃないかな。反対にヴォートランは間違いなく使える。いざと言うとき困りそうだが、控えは思い切って趣味的にM.G.ルイス『マンク』とC.マチューリン『放浪者メルモス』の両サイドバックという考えも魅力的で捨てがたい。
posted by 不狼児 at 22:50| Comment(7) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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