その点で超短編は長編小説に似ている。
超短編が散文詩に似ているのは、散文詩が断片的であるがゆえに、一個の全体であることを希求する時だけだ。
とまあこんなふうに定義してみました。
もちろん定義であるからにはその他の多くの考えを排除するものなので、異論はいくらでもあるに違いない。ひとつの定義は単に定義する者の趣味と能力の限界を示すだけとも言えるだろう。
例えば私は歌詞的な超短編は読めない。もちろん読む能力がないという意味で。
つまりそうした超短編は読者が自ら歌う必要があるからだが、演奏者の資質がないというか、作品の外部でその歌詞に合ったリズムとメロディを鳴らせない。
パロディが元ネタを知らなくても面白く読めなければ意味が無い、と考えるのと同じで、できる限り作品の独立性が高くあって欲しいわけですが、さりとて知識とか外部情報の最低限度をどのあたりに置くべきかは微妙な問題で、歌詞を見て音楽を聴けるのがごく普通レベルの人間の能力なのかどうか。
ところが『超短編の世界3』という書物の体裁の中で、巧みなレイアウトとタイポグラフィのおかげで眼に見える音楽を与えられると、あら不思議、私のような音痴でも、過去にどこかピンとこなかった作品が生まれ変わったように面白く読める。
言ってみれば超短編は極めて半端な形式、より完全を求めれば散文詩になり、より半端を窮めれば歌詞になるという、時と場所によって位相を変え、意味が変わる、非常に小説らしい中途半端な位置に浮遊する創作物なのだろう。
異論の多さは、逆に超短編の一篇一篇がそれぞれ一つの全体を目指していることの証とも言えるかもしれない。
あるいは断片として限りなく拡散してゆくことを望むのかも。
いずれにしても極端に短い他は、ショートショートの予想外の驚きとか、怪談の怖さとか、SFらしさだとか、ミステリーとしての成立だとか、特定のジャンルの縛り(先入観とも言う)がないだけに、実作以外で超短編とはこうしたものだ、とは言えない。
だから趣味に合う合わないにかかわらず、可能性を狭めることなく、広く、多様で、自由な作風を受け入れられるというわけ。良き哉。
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> 異論の多さは、逆に超短編の一篇一篇がそれぞれ一つの全体を目指していることの証とも言えるかもしれない。
> あるいは断片として限りなく拡散してゆくことを望むのかも。
特にこの一節は、くりかえしくりかえし思い出されるべき「定義」であろうと思います。
論理的というよりイメージ過多で申し訳ないような文章ですが。
半分わからなくてもかまわない、残り半分に魅力を感じれば読めてしまうものでもあり、あるワンセンテンスにピンと来ただけで、ガラリと全体の意味が変わってしまうこともあり。超短編は読まれ方も書き方も自由闊達なのが魅力的です。
そのわりにいつも選評がアレなのは愛情の表現が「否定の否定」に偏っているもので、ご勘弁を。