罵倒するなら相手の全人格を否定するくらいは当然として、存在そのもの、存在した記憶さえ抹殺するくらいの強い否定の意思がないと間が抜けたものにしか聞こえないと思うのは、自分だけだろうか。
オクターヴ・ミルボーとか、バルベー・ドールヴィリーの罵倒はもっと強烈で、爽快だった記憶があるんだが。
チェリビダッケがマーラーを「自分の資質を誤解して巨大なものに憧れた哀れなサナダムシ呼ばわりしても不快な気がしないのは、唯一演奏した「亡き子をしのぶ歌」が素晴らしい出来だったからだけではなく、自分の考えを留保なく述べることの爽快さにあふれているからだろう。ある意味正確な表現でさえある。罵倒が不正確であったら意味が無い。
そんなことを言ったら、と言い返せることは数少ない。
――あなたの好きなブルックナーなんて浜辺に打ち上げられたシロナガスクジラの死体みたいなもので、巨大な上に腐りも風化もしないので邪魔なだけ。――チャイコフスキーにいたっては腹を下した五十女三人のお喋りだ。話しているんだか漏らしているんだかわからない。――とか。
冴えない反攻だ。晩年のベートーヴェンの演奏が凄いので、もちろんミケランジェリとの協演は絶品だし、どうしても圧倒される。
カラヤンがいいという人間には差別用語を使って×××で済むんだけど。
罵倒するにも対象の格に合わせて言葉を選ばないと。
本当に面白い本なら誰かが内容を紹介してくれるだろう。
でも、どうなんだろう。企業名をさん付けして呼ぶ胸糞悪い連中だらけの現代の日本で、罵倒が受け入れられるだろうか? 即効でゾッキ本行きじゃあるまいな。
それにしてもこのような種類の本まで刊行されるのに、『サラゴサ手稿』がいまだに出ないのは解せぬ。道尾秀介で『怪奇小説という題名の怪奇小説』を復刊させたみたいに、誰か芥川賞か直木賞でも獲った作家をダシにすればいいのに。
誰かやってくれないかな。
私が出せ出せ言っているうちは永久に刊行されないような気がしないでもない。
あ、でもこんな文章をを上げたら、超短編の評判を悪くしないようにと電子書籍の公開を止めた意味がないか。
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