2011年07月10日

『恋する虜』と『パリ日記』

ジャン・ジュネ『恋する虜』とエルンスト・ユンガー『パリ日記』を交互に読んでいる。
読んで、こんな幸福感を抱かせるような本はめったにない。
全く異質な文章だがどちらも、どこまでも可能なかぎり正確さを保とうとする意志に溢れているように感じる。
だが何に対して正確なのだろう?
たぶん観念的な現実ではなく、感覚的な現実に対する正確さだ。
あくまで感触の問題だけれど。

小説は大抵の場合、現実とはこういうものだという考えに沿って展開されてしまう。
予め定められた物語の枠組みに流し込まれた言葉はどんなに熱く、溶けた鉄のように煮えたぎっていても、本来の自由を失い、生きられた現実に――いや、むしろ生きるべき現実に、と言うべきか――到達することができない。
誰もが小説の中に閉じ込められようとは思わないのだから、言葉が人間を言葉から解き放とうとしない書物は、読んでいてもひたすら息苦しいだけだ。間違っても幸福感などもたらさない。

しかし、時に読むのが苦痛になることもある。
そこには決して読者の手の届かない時間が流れているからだ。
まるで言葉が現実に届いた途端、読まれることを拒否するかのようだ。

何と言うか、リビングストンやヘディンの旅行記と同じだ。これらは探検であり、「場の発見」をめぐる記録でもある。ドキュメントと言っても通常のルポルタージュのように軽々しく物語の枠組を現実に適用して見せるわけではない。オリエンタルなものが異質なものとして意味を持つのは西洋人にとってだけだ。日本人が東洋思想の特殊性だの優越だのを謳うほどバカげたことはない。

自分の領域からさまよい出すこと。読者もまた作者と等しく「身を引き剥がして」、新たな「場を発見」しなければついて行けないような本だ。

途中なんで、こんなもの。読み終えたら感想なんて書けないもんね。恥ずかしくて。



posted by 不狼児 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。