2011年02月20日

定義、あるいは『超短編の世界3』

超短編は無駄に長くない長編小説である。あるいは理想的な長編小説である。一つの話を首尾よく物語ることで成立する中短編小説とは違って、一つの全体を呈示する。ツイッターが流行っているから、超短編が書きやすいor理解されやすい、というのは誤解です。同じように短いからと言っても超短編の言葉は呟きの対極に位置する。一個の全体像を呈出するものであるからにはさもしく曖昧なコミュニケーションを求めることはない。曖昧で遠慮深く、自堕落で厚かましい囀りの代わりに沈黙を――媚びと狎れ合い、仄めかしと誘惑のコンビネーションが作る場というものを破壊して、無人の荒野を開く。
その点で超短編は長編小説に似ている。
超短編が散文詩に似ているのは、散文詩が断片的であるがゆえに、一個の全体であることを希求する時だけだ。

とまあこんなふうに定義してみました。
もちろん定義であるからにはその他の多くの考えを排除するものなので、異論はいくらでもあるに違いない。ひとつの定義は単に定義する者の趣味と能力の限界を示すだけとも言えるだろう。

例えば私は歌詞的な超短編は読めない。もちろん読む能力がないという意味で。
つまりそうした超短編は読者が自ら歌う必要があるからだが、演奏者の資質がないというか、作品の外部でその歌詞に合ったリズムとメロディを鳴らせない。
パロディが元ネタを知らなくても面白く読めなければ意味が無い、と考えるのと同じで、できる限り作品の独立性が高くあって欲しいわけですが、さりとて知識とか外部情報の最低限度をどのあたりに置くべきかは微妙な問題で、歌詞を見て音楽を聴けるのがごく普通レベルの人間の能力なのかどうか。
ところが『超短編の世界3』という書物の体裁の中で、巧みなレイアウトとタイポグラフィのおかげで眼に見える音楽を与えられると、あら不思議、私のような音痴でも、過去にどこかピンとこなかった作品が生まれ変わったように面白く読める。
言ってみれば超短編は極めて半端な形式、より完全を求めれば散文詩になり、より半端を窮めれば歌詞になるという、時と場所によって位相を変え、意味が変わる、非常に小説らしい中途半端な位置に浮遊する創作物なのだろう。

異論の多さは、逆に超短編の一篇一篇がそれぞれ一つの全体を目指していることの証とも言えるかもしれない。
あるいは断片として限りなく拡散してゆくことを望むのかも。

いずれにしても極端に短い他は、ショートショートの予想外の驚きとか、怪談の怖さとか、SFらしさだとか、ミステリーとしての成立だとか、特定のジャンルの縛り(先入観とも言う)がないだけに、実作以外で超短編とはこうしたものだ、とは言えない。
だから趣味に合う合わないにかかわらず、可能性を狭めることなく、広く、多様で、自由な作風を受け入れられるというわけ。良き哉。



posted by 不狼児 at 23:01| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月16日

というのも

今や罵倒だけが純粋な文学だ。誰も彼もが自己を語りたがる中、罵倒だけが他者を語ろうとする。たとえそれが自己を映す鏡でしかないとしても。
正確な罵倒は、いたずらに他者と自己を同一視することなく、自他を隔てる壁を取り払おうとする。
自他を共に保存したまま交流することはできないから、その行為が少々破壊的なのはしかたがない。というか避けられない。
読み取られるのを待つことに耐えきれず、情熱のあまり自ら出向いて噛みつく言葉は迷惑この上ないが、しかし所詮、血が流れないところに交流はないのだ。
食い裂くものと食い裂かれるものは流される血の中で一体化する。

余裕を持って楽しむとか、公正な評価、したりげな解説など、適切な距離を保てない性分では無理だろう。

世に蔓延する自己充足する言葉の賤しさは丸々と膨れあがったアブラムシの腹を思いおこさせる。
アリが蜜を舐めにそこに群がる。
posted by 不狼児 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

眼高手低、あるいは平山郁夫美術館について

いつ見ても感心するのが平山郁夫コレクションの見事さだ。小体で、繊細、それでいてどれも例外なく彫りが深い。あざやかで密度の高い美術品の小宇宙。あれだけのっぺりとした、平板で莫迦ばかでかいだけの退屈な画しか描かなかった人間が、これ程の鑑賞眼を持っているとは。よく自己嫌悪に陥らず描き続けられたものだ。それよりも驚くべきは画力とデザインセンスはかけらもないのに生き残り、芸大の学長にまで昇り詰めた抜群の政治力、機を見るに敏な行動力、獲得した権力と財力をいいものを残すために使う高潔な意志(莫迦な金持ちはほんとくだらないことにしか財産を費やさないものだから)と言い、まさにインディ・ジョーンズなど足元にも及ばない冒険家の鑑。現代の奇跡だ。
詐欺師として人心をコントロールする能力は、コロンブスにも匹敵しよう。しかしあっちはたまたまアメリカがあっただけのこと。このように明確な意思はない。
高額でゴミを押し付けられた財界人も屑を抱えて満足しているべきだろう。詐欺もここまで来れば立派な芸術だ。横山大観みたいに下手くそな画と後世まで残る低劣な悪党向けの詐欺のネタしか残さなかったインチキぶりと比べると雲泥の差としか言いようがない。
posted by 不狼児 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

期待、または『罵倒文学史』のこと

罵倒文学史という本が面白そうだと思ったが、サンプルを見ると、ちょっとレベルが低そう。これじゃ小学生の悪態だ。
罵倒するなら相手の全人格を否定するくらいは当然として、存在そのもの、存在した記憶さえ抹殺するくらいの強い否定の意思がないと間が抜けたものにしか聞こえないと思うのは、自分だけだろうか。
オクターヴ・ミルボーとか、バルベー・ドールヴィリーの罵倒はもっと強烈で、爽快だった記憶があるんだが。
チェリビダッケがマーラーを「自分の資質を誤解して巨大なものに憧れた哀れなサナダムシ呼ばわりしても不快な気がしないのは、唯一演奏した「亡き子をしのぶ歌」が素晴らしい出来だったからだけではなく、自分の考えを留保なく述べることの爽快さにあふれているからだろう。ある意味正確な表現でさえある。罵倒が不正確であったら意味が無い。
そんなことを言ったら、と言い返せることは数少ない。
――あなたの好きなブルックナーなんて浜辺に打ち上げられたシロナガスクジラの死体みたいなもので、巨大な上に腐りも風化もしないので邪魔なだけ。――チャイコフスキーにいたっては腹を下した五十女三人のお喋りだ。話しているんだか漏らしているんだかわからない。――とか。
冴えない反攻だ。晩年のベートーヴェンの演奏が凄いので、もちろんミケランジェリとの協演は絶品だし、どうしても圧倒される。
カラヤンがいいという人間には差別用語を使って×××で済むんだけど。
罵倒するにも対象の格に合わせて言葉を選ばないと。

本当に面白い本なら誰かが内容を紹介してくれるだろう。
でも、どうなんだろう。企業名をさん付けして呼ぶ胸糞悪い連中だらけの現代の日本で、罵倒が受け入れられるだろうか? 即効でゾッキ本行きじゃあるまいな。

それにしてもこのような種類の本まで刊行されるのに、『サラゴサ手稿』がいまだに出ないのは解せぬ。道尾秀介で『怪奇小説という題名の怪奇小説』を復刊させたみたいに、誰か芥川賞か直木賞でも獲った作家をダシにすればいいのに。
誰かやってくれないかな。
私が出せ出せ言っているうちは永久に刊行されないような気がしないでもない。

あ、でもこんな文章をを上げたら、超短編の評判を悪くしないようにと電子書籍の公開を止めた意味がないか。

posted by 不狼児 at 17:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月07日

近況、あるいは『風流夢譚』

みちのくといえば深沢七郎だろう、と思ったが姥捨て山の話なんか金を払って読みたくない。昔映画の一シーンを見たことがあってうんざりした記憶があったからだ。だいたい面白い小説の映画化は面白い物になった例がないので原作は偲べないのはわかっているが、それにしても深沢七郎を賞賛する人の口ぶりはどこか胡散臭い。なんかこう訳知り顔な態度に抵抗を感じるのだ。でもそこに深沢七郎が三島由紀夫は少年文学だと言った話が載っていて、なるほど三島由紀夫が好ましいのはそういうわけかと気がついた。僕は少年文学が好きなんだ。大人の文学なんか読みたくないなあ。とはいえ深沢七郎の物を見る目は確かなようだ。
そう思ってネットで拾った『風流夢譚』を読んだら、これはもう素敵に面白い。大笑い。この魅力をなんと説明したらいいか。芸としての文の力をいかんなく発揮した、絶妙な距離感。正しく大人の文学でありました。
浪漫的小品と題されるにふさわしいロマンティシズムに溢れた夢想。ファンタジックな歌物語。最高に軽やかなファルス。見かけとは裏腹に非常に知的な作家なのだろう。
これを読んで人殺しに走る少年がいるというのもどうかと思うが、夢オチを莫迦にする人間をせせら笑うかのように、夢の時間は確かに生きられた時間であると表現しているのだから、無理ないと言えなくもない。夢見られた時間は現実に生きた時間と等しい。その証拠に語り手が起きている間しか動かない腕時計が動いている。少年の中では天皇は現実に殺害されたのだ。

やはり文芸は天性だな。百物語怪談会をずっと読んできて、いろんな話、いろんな語り方があるなあと面白く読み進め、最後に鏡花の鰻の話にいたって、まったく別格のアトモスフィアに愕然とするというか、絶望するというか、それと似た感じ。

posted by 不狼児 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。