2007年01月31日

人間機械論

『人間機械論』ド・ラ・メトリ 杉捷夫訳 岩波文庫
十八世紀に開花したフランス唯物論のもっとも尖鋭な代表者といわれる医師ラ・メトリ(一七〇九‐五一)の主著。主として生理学の力をかり、人間の精神が脳という物質の働きにほかならぬことを論証したもの。発表されるや宗教界に激しい憎悪の嵐をまきおこし、各宗派は「一人の哲学者を迫害するために力をあわせて狂奔した」という。(岩波書店HPの解説を引用)


 柳沢大臣の発言の問題点を「男と女の問題」にすりかえるのは非常によろしくない。女が「子供を産む機械」なら、男は「働く機械」としか考えていないのは明らかだし、問題なのは政治家が経済的観点と称して人間を人間として扱わない思考を弄するところにあるので、野党も他人事のように非難している場合ではないだろう。「ニートは働け」と言うのと、言っていること自体は変わらない。

 もちろんそうした非人間的な見方が必要な場合もある。戦争で兵を進める時に兵士を人間だと考えたら囮部隊は使えないだろう。ここから、政治家が無意識的にも、意識的にも、経済の名の下に国民を戦争状態に置こうと企んでいる、という話をでっちあげようとしたのですが、怪談にも超短編にもなりゃしない。今年に入ってからまったく何も書けず。不調だ。


 

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2007年01月30日

楠伐採、しかも多数


千葉市稲毛区宮野木町の神社「甲大神(かぶとおおかみ)」の敷地内にある、樹齢300年近い「ご神木」を含む樹木が昨年12月、隣接地で住宅販売を手がける業者によって誤って伐採され、神社側と業者の間でトラブルになっている。業者は神社側に謝罪し、代わりの木を植えることを申し出たが、伐採された中に千葉市指定の保存樹木2本などが含まれていたこともあって神社側はこれを受け入れず、千葉北署に器物損壊容疑などで被害届を提出する事態…読売新聞


 という話だ。樹齢三百年の楠が十数本だから、さぞ高く売れただろう。境界付近だけでなく社の前の樹まで切っているので絶対にやる気でやっているのは間違いない。
 宮司は境界からはみ出た部分の枝を刈ることを許可したらしいが、枝を許可すれば根こそぎ切り倒すのが不動産業者という生物だ。見張っていなかった神主が悪い。日本人なんて皆最低に下衆な人間ばかり、目の前に金があれば必ず盗むし、なければNHKのように脅して取る。脅されても給食費は払わない。少しでも気を許したり信用したりすれば犯罪行為に直結するのはわかっているはずだ。
 まして相手は不動産屋だ。宮司や坊主だからってまともと限るわけではないが、宅地開発業者じゃねえ。周辺住人のことなんか気にかけず、儲かれば何をしてもいいと言う連中だ。
 惨状を嘆く宮司にしてからが、曲がりなりにも宮司なのだから裁判などとまだるこしく役立たずなことを言っていないで、巫術を使って隣の宅地を呪い(買った人間の体が腐って血膿の中から樹が生えるように)、伐採業者を呪い(夜中に切り株が降ってきて押しつぶされて死ぬように)、宅地開発業者を呪って(嘘つきの舌が分裂し千枚に増えて窒息して死ぬ。本当はもっとひどい死に方をして欲しいが、悪党ほどあっさりと、あまり苦しまずに死ぬのが世の常なので仕方ない)欲深い一族郎党が二度と日の目を見られぬようにしてもらいたいものだ。
 たとえ自らの肉体を生贄にしてでも。それができないのなら宮司を務める資格がない。


 

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2007年01月15日

新年

 『てのひら怪談』の、本の姿が公開。変形版って言うのがいい。
 これで栞紐が付いていれば最高なんだけど。この間の束見本には映っていたような気もするが、どうなるんでしょうね。

 それにしても何処かで持ったことがあるような形だと思って記憶をたどると、『バベルの図書館』だった。ボルヘスが編んで序文をつけた世界文学のアンソロジーで、国書刊行会からでた箱入りの変型判で、全三十巻。全部読んだわけではないが、ワイルドの『アーサー・サヴィル卿の犯罪』は物凄い傑作だった。アラルコンの『死神の友達』もいい。たかが百篇でアレに対抗しようというのはなかなか大変だ。リラダンもいればヘンリー・ジェイムズもいる。マッケンがいてダンセイニがいてカフカがいる。キップリングがいてメルヴィルにポーにもちろんボルヘスがいるのだから。
 

 妄想はさておき。
 久しぶりの更新です。年末に体調を崩して以来、精神が引きこもり状態と言うか、ずっと沈滞してました。新年明けまして……やっぱり明けない方がよかったような気もする。

 本日、ジェット・リーの『ダニー・ザ・ドッグ』を見て少し復活。
 傑作。映画に関してはたいてい他人と意見は合わないが、これをつまらないという人間は御伽噺が理解できないということだろう。ボブ・ホスキンスとモーガン・フリーマンの演技はまさしく御伽噺の登場人物を演じて透明な構図を描き出し、ジェット・リーはそこで当然のように泥臭いアクションをして犬の戦い方を表現する。

 ドラマや再現ドラマやバーチャルリアリティやファンタジー(ファンタジーはファンタジーであるとと堂々と名乗るが御伽噺はそうではない)は受け容れられても、世界を透明なものとして描く御伽噺が受けないのは悲しい。
 自分の書くものは明らかにこちら側(明らかにドラマを構成しないし、あくまで個の視点にとどまって、ファンタジーの世界を共有しない)なので、情けないというべきかも。

 そう言えば『牧歌メロン』も縦長の版型だった。

posted by 不狼児 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする